Cさん視点の話

意味なんてないよ

シュレディンガーの姫

旧友と会うと、人は記事を書きたくなる。現在完了形の過去が具現化されるからだろう。思い出というのは常に美化されがちであるが。

人と会うと、人と喋ると思考が溢れて来る気がする。それはなぜか。個人的に思うのは他者の生き様から自分が学ぶ....とかではなく、逆に自分自身が「見られている」ことがはっきりと自覚されるからではないか。

ネット上では「見る」行為は多分に行われる。僕はネトストなので呟かないけど人のツイートは毎日2時間は少なくとも見てる。しかしそう言った「見る」行為は現在では主に匿名性を持って行われる。ツイッターってのは海でボトルに手紙を出すみたいな行為(?うまい例が思いつかない)これは日常生活ではあまりない、ネット特有のものだ。

量子論の話に、観測者効果、というものが存在する。シュレディンガーの猫がわかりやすいが、事象は観測されることによって存在の確率が収束するという話だ。これが実は人間世界でも同じことができてるのでは?というのが個人的な仮説である。

人間は他者を観測するときに、無意識にキャラ付けを行う。こういう人であって欲しいなぁという人物像を脳内で描き出し、その人の評価その脳内イメージに引っ張られることが多い。実はその一方で、その「見られている」方の人もそのイメージに引っ張られうるんではないか?そしてそのエネルギーは当然見られる数が多ければ多いほど強い力になるのでは、と。

不幸キャラの人は、いろいろ厄介ごとを巻き込んで不幸になっていくが、それは「その人が不幸だと面白いなぁ」という視線に影響されたものかもしれない。クズな人間がクズなことをするのも、お調子者がヘマをするのも、実はそうだといいなぁという周囲の人の無意識が成してるものなのかもしれない。シュレディンガーの猫は死んでると観測されたために死んでしまったのかもしれない。

そしてこれが現代世界で恐ろしいのが、ネットの発展により、最大視聴者数が桁違いに多く、しかも急激でめまぐるしく、しかも身近な人でもそうなりうる世界になってしまったということだ。そうなればそのエネルギーは凄まじく、しかも視聴者の理想とする像が定まらないまま翻弄されて、時が過ぎると嵐が過ぎたように忘れ去られる。そうした現代世界の中で生き抜く術は、「隠れて生きよ」というやつである。(元ネタの哲学者は忘れた。)自分を保ちたいのならば、承認欲求は目の見えない大勢の人に預けることをせずに、数人の気の知れた人のコミュニティの中で生きることである。しかし、注意点は自分の存在を観測する他者がいなければ、自分の存在自体が希薄化して危ういものになってしまうこと。また特定の人物に承認を依頼すると依存関係になってしまい、うまくいかないということ。

最近なんか自分らしくないなぁ、自分らしさ見失ってるなぁ、と思う人は、自分の胸に手を当てて、自分はどうでもいい他者の虚像に振り回されてないか、ということを考えてみることも大事である。