Cさん視点の話

意味なんてないよ

他人事、ひとこと

僕はあっけらかんで何も考えてないように見えるかもしれないが、結構心配性な方だ。これは割と母親譲りなきがする。むしろ心配が先回りすぎて、転ばぬ先の杖的な感じで色々対策してあるから、逆に目先に心配事がなかったりするから余裕に見えるんだろう。未来は悲観しながら、常に高い望みを持たないようにしている。

そんなこんなで見事僕の心配事は無くなったわけだけど、人っていうのは不思議なもので、心配事が片付くとまた心配事を探し出そうとする。そんなこんなで僕がたどり着くのは、他人の心配事だ。

他人の心配事は暇つぶしにはうってつけだ。まずなくなることがない。そして気楽だ。そして他者にはそれは優しさに見え、美徳として扱われることだ。僕は優しさとは、強者の余裕に他ならないと予々思っている。他のことでいっぱいいっぱいの時に、他者に対する優しさなど存在し得ない。物事の最優先事項は第一に自分のためでしかありえない。

それを前提としてさらに考えてみよう。果たして優しさとは、美徳なのだろうか。僕はこれは、優しさは決して他者のために行われるものではない、自分本位なものであって初めて社会徳たり得るとおもう。5億円の年収の人が発展途上国に寄付をするのは、人類の社会的発展においておそらくプラスだ。かといって、寄付しすぎて会社が潰れれば、それは結果的にかなりの人が路頭に迷うかもしれない。それは人類にとってマイナスだ。子供を助ける親は、自分の安全がある程度確保されてから助けに行かなければ、無駄に死体が増えるだけかもしれない。それが人類にとってプラスな選択肢なんだろう。

ボードゲームにおいて、自分の勝ちを目指さない行為は、ボードゲームの構造自体を崩しかねない。しかし他者との関わりな以上(特にプレイヤーが複数いる場合は)、他者への情けは、自分の勝利への重大なキーになりかねない。

情けは人の為ならず。結局この言葉に尽きるわけだが、自分を投げ出した無償の愛など存在しない。それだからこそ、優しさ、は美徳たり得るのだ。逆に、自分を犠牲にした優しさは、もしかしたら社会的に罪なのかもしれない。