Cさん視点の話

意味なんてないよ

#ハッシュタグ

最近割と忙しかったけれど、割とひと段落ついたので、久しぶりに文字を書こうと思う。
今回はレッテルの話です。
世間にはレッテルで溢れてる。それは、情報化社会になってからというもの加速しているように思える。キャラ化社会と表現される今の世界、ドジっ子だとかガリ勉だとかおバカキャラだとか、そういった属性が重要視されてる社会である。なぜだか決められた雛形に自分をいかにうまく嵌め込めるかが重要になってる気がする。僕自体その傾向にそこまでの嫌悪感を覚えないけれど、一時期ファンタのラベルにキャラ属性が書いてあって送りつけ合う(?正確な用途は友達がいないのでわからない)みたいのがあった時はなんとなく吐き気がした。
キャラ化された人物は、アニメの中では映えて見える。なぜか。それは多分、ストーリーが先に存在していて、それに合わせて彼らの性格が規定されているからだろう。彼らの性格は、ストーリーを構成する要素になり、さながらピタゴラスイッチを見てるような感覚になる。そこでうまく転がるようなボールの大きさや位置が用意されているのだ。
しかし、実際の人生はピタゴラスイッチではない。いや、まぁ決定論を信じている人にとっては必ずともそうとは限らないけれど。しかし一般的な世界観では、人がいて、そこからストーリーが生まれるのが自然な流れだ。
現代では、様々なものがデジタル化されている。デジタルデータに落とし込まれるってことは、アナログの持つ連続的な値は切り揃えられて、捨象される。そして持ち運びのいい、どこの機器でも互換性のあるデータとなるのだ。
そしてキャラ、もこの捨象の行為である。一人の人間に対する多角的な情報を、なるべく扱いやすく、誰でもすぐ見ただけでわかるような存在にする。それが現代で求められることなのかもしれない。ああなんて薄っぺらい。そんなの三次元人間が二次元キャラになんて同じ土俵で戦って勝てるわけないじゃないか。
そんなこんなで現代人は全て人を「タグ」で見がちだ。例えば俺について表すなら

#オタク #東大二年生 #理一 #数学科 #イカ東 #ボドゲ好き #トランプ好き #暇人 #天パ #ゆるい #ks出身 #新小岩在住 #ネカマ
ってな感じでtwitterのプロフィールにかけるぐらいの範囲で全部表せそうな。小学校で朝礼で貧血で倒れた時は、担任の先生から「現代の受験戦争のため深夜まで勉強させられてる子供」と同情されたし。(実際は徹夜で漫画読んでただけ。)恐らく多くの世間一般人に、僕は体育が死ぬほど嫌いで、数学に関してはただの趣味ってのは絶対理解されないだろう。
人は人に勝手に貼ったレッテルを剥がされた時、裏切られたような気がするらしい。これは20年くらいの人生でなんとなくわかって来たことだと思う。なんと身勝手な話だろう。勝手に貼って破って裏切られたって嘆くってちゃんちゃらおかしいことが、しかし世間には往々にあるらしい。多分mrym先生との一件も、ネカマして騙した彼との一件も、知り合いに「お前ネカマとかするようなやつだったんか、口ききたくねえな」って親友面して来たただの知り合いも、彼らの怒りのどこかにこの感情がある気がする。僕は確かに外見だけだと無害で善良な市民らしい。脳内危険思考サイコパスなんやけどなぁ.....
僕は人の意外な一面に出会うことが楽しい。世界は僕の知らないことであふれている。そんな世界が楽しくてしょうがない。隠しストーリーとか地味な伏線とか、そういうのを鬱陶しいと考えるやつはインディジョーンズでも見てればいいんじゃないですかね。そういう人って大抵自分以外の人間の行動パターンを全て知った気になってて、知ることは支配することであり、そういう奴って大体他者を見下しているんだよなぁ。(というレッテル)
科学者は自然探究し、自然法則を見出して来た。知ることは支配すること。人間は傲慢になり自然を見下して、搾取するようになった。しかしそうなって仕舞えば科学者はおしまいだ。それはつまり自分を全知全能の神だと思っていて、もう自分には知らないことなどないと驕っている。そうなってしまうと、もう科学の発展はない。何もみつけられなくなってしまう。
常に自分の見てる世界を疑う、それが科学者、そして知恵ある者、ホモ・サピエンスとしての基本姿勢である。cさん視点の話、自分の見えない世界に耳を傾けてみるのです....きこえますか...今私は直接...(以下略